君の横顔が好きだった

「生一丁!」
「ありがとうございます!」
 程よく酒の回ったサラリーマンの上機嫌な話し声、たまにドッと沸く笑い声、威勢のいい店員の掛け声が飛び交う週末の居酒屋は、複雑で繊細な感情を曖昧に隠してしまうには持って来いの場所だ。
「あー、そういやさ、真ちゃん、俺、福岡へ転勤になっちゃった」
 ビールを2・3杯空けた頃、刺身のツマを突きながら、高尾はさり気なさを装ってヘラリと笑った。
 カウンターに並んで座る緑間から、チラリと視線を向けられたのを感じる。
「そうか…いつからだ?」
「来月頭から。もう二週間もねえ!」
「えらく急だな。時間が合えば、見送りに行ってやってもいいが」
「いいっていいって!忙しいんだろ?緑間先生」
 口調こそ不遜なものの、珍しい緑間からの素直な申し出に頬が緩んだが、寝る暇を惜しんで医者の道を志す彼に、自分のことで時間を取らせたくはなかった。
「こっちに出張で戻ってくることもあるし、つか盆と正月は実家帰るしな。またその時連絡するわ」
「わかった。そうしてくれ。…そうだ、福岡といえば、宮地さんが行っているのではなかったか?」
「そーなんだよ!決まって即行電話したらさぁ、またうるさいのが来るのか轢くぞって言われて。ひどくね?けどその後、こっちの美味い店教えてやるから着いたら連絡しろってさ。何だかんだ言って嬉しいんだぜあれ。宮地さんも大概ツンデレだよなー」
「宮地さんに先に電話したのか」
「んあ?」
「いや、何でもない…」
 何かを言い掛けて、ごまかすように枝豆を口に運ぶ緑間の横顔を、高尾はそっと盗み見た。
 高尾は、緑間の横顔が好きだった。うっそりとした緑色の前髪から伸びる美しい鼻筋、太めのテンプルの下にちらちらと見え隠れする翡翠色の瞳、その瞳に長い影を落とす真っ直ぐな睫毛、意外と肉厚で男らしい唇、顎から耳にかけての骨ばったライン、それらの全てが完璧なバランスを持って、高尾を魅了した。横顔から視線だけわずかに動かして高尾を見下ろす時の伏せられた半眼も、鼻の高いことを示すように少し縦長の鼻の穴も、白くて冷たい、しかし案外すぐにうっすらと色づく耳たぶも、もう十年近く見続けているが飽きることはない。中でも、顎の骨を辿った先、左耳の付け根の少し下にある薄いほくろは、緑間より20cmばかり小さく、彼のすぐ隣に立つ高尾だけが見ることのできる、特別のお気に入りだった。
 緑間が気付く気配がしたので、さり気なく視線を目の前の刺身に戻す。
「福岡って魚も美味いんだっけ?」
 はははと意味のない笑いを漏らしながら、高尾はビールを一息に飲み干した。
 今回の転勤は、自分の気持ちに踏ん切りをつけるいい機会だと思っている。日本列島を遥かに下って、海まで渡って物理的に離れてしまえば、やがてこの気持ちも薄れていくに違いない。いつか彼の横顔が他の誰かのものになってしまっても、笑っておめでとうを言えるようになりたかった。

* * * * *
「ぶはぁ~美味い魚に美味いビール、生き返るわー」
 ビールを呷って息をつく高尾を、宮地は呆れたように横目で見た。
「お前見た目は変わんねーのに、やっぱおっさんになったよな」
「おっさんて!酷いっすよ!」
 福岡に来て早三ヶ月が過ぎようとしていた。高尾より一年ほど先に福岡に転勤になっていた宮地とは、ほぼ週一のペースで飲みに行っている。宮地も高尾も、それなりにこちらでの人脈を築いてはいたが、仕事仲間しかいないこの遠い地で、気の置けないかつてのチームメイトを求めるのは必然のことだった。
 今日は花金で、珍しく二人とも早くに仕事が切り上がり、8時を回る頃には結構な杯を重ねていた。高尾も宮地もそこそこ酒には強い方だが、高尾はこの一週間続いた深夜残業の日々に疲れていたのか、いつになく酔いが回っていた。
 盛り上がれば、話はいつも高校時代に舞い戻る。二人の「青春」が詰め込まれたあのバスケ部のことに関しては、いくら話しても尽きることがない。
「そういや高尾がこっち来てそろそろ三ヶ月になるけど、お前がいなくて緑間はちゃんとやっていけてんのかよ」
 冗談交じりに宮地が言った。
「いやもうホントマジね。たまに緑間寂しくて泣いてねーか心配になってメールするんすけど、なんか全然平気っぽいっすわ」
 高尾も笑いながら答える。
「案外、俺いなくても真ちゃん大丈夫なんだなーと…思って…」
 ビールジョッキを握る手に力が篭った。あ、ヤバイ、と思ってとっさに俯いたが、宮地が訝しげな視線を向けるのを感じた。
「…高尾?」
「や、すんません、なんか…真ちゃんいなくて駄目なの、俺の方だったみたいで…」
 随分情けない声が漏れ、はっとする。
 宮地は黙ってこっちを見ている。
「あ、ははは、何言ってんだ俺。緑間の彼女かよーってね!すんません、ちょっと酔っ払ってんのかも。あ、宮地さんグラス空いてるじゃないっすか。次何飲みますか」
 慌てて顔を上げて笑みを浮かべ、ドリンクメニューを取り上げる。しかし、宮地は難しい顔で高尾を見つめたままだ。
「あの、宮地さん?今の忘れて…」
「お前、『そう』なのか?」
 高尾の言葉を遮って、宮地が低く尋ねる。
「へ、あの、『そう』って?」
「そういう意味で、緑間が好きなのかって聞いてんだよ」
 ストレートな宮地の質問に、高尾は言葉に詰まった。思わず真顔になって宮地の顔を黙って見返す。宮地の表情に、茶化したようなところはない。真剣な目の色に、高尾は少し顔を伏せた。
「あー…うん、まあ、そうっすね」
 黙ったままの宮地に、引いたか?と恐る恐る顔を上げたら、ぬっと左手が伸びてきて、高尾の頭を掻き混ぜた。バスケをやっていた頃と変わらない、顔に似合わず少しゴツゴツとした大きな手のひらから温かいものが伝わってきて、高尾は込み上げてくるものを飲み込むのに必死になった。
 宮地は、高尾が落ち着くまで、ビールを飲みながら何も言わずに待っていてくれた。
「すみません、もう大丈夫っす」
 高尾が眉を下げてどうにか笑うと、不機嫌そうに舌打ちしながらも、
「ちゃんと連絡取れよ」
と、再び高尾の頭をぐしゃぐしゃにしたので、高尾の表情は泣き笑いに崩れ、宮地に「不細工」と殴られた。

* * * * *
 その日、高尾は福岡に転勤になって以来、初めての東京出張だった。緑間に連絡を入れようかと一瞬迷ったが、どうせお互い合う時間もなさそうなので止めた。
 手早く東京での仕事を済ませ、とんぼ返りのようなスケジュールで、羽田へ向かう電車に乗る。ここは実家に程近い駅で、ほんの数ヶ月離れていただけなのに随分懐かしく感じた。
 見慣れた色の電車に乗り込んで、一息つく。後から入ってきたサラリーマン風の男が、軽く高尾にぶつかって「すみません」と頭を下げた。「いえ」とか「こちらこそ」とか口の中で呟きながら、高尾は珍しく自分より背の高い男の横顔を見上げた。顎のきれいなラインが緑間によく似ていて、一瞬どきりとする。
(真ちゃん、やっぱ連絡すればよかった。もしかしたら、たまたま休みだったかもしんねーのに…なーんてな。踏ん切りつけようとか思いながら、まだまだ未練たらしいぜ、俺も)
 発車ベルが鳴り、一歩車内へ体を寄せる。その時、高尾の広い視界の片隅に、緑色の頭が映った。
(真ちゃん?)
 思わず身を乗り出しかけた高尾の眼前で扉が閉まる。少し遠いが、見間違えようのない彼の姿に、頬が紅潮するのを感じた。
 私服だ。休みなのかな。しくったなー会えたかもしんねーのに。なあ、こっち向けよ真ちゃん。
 扉のガラスに張り付くようにして、久しぶりに見る彼の横顔に目を凝らす。緑間は、周囲より抜きんでて飛び出した頭を少し下に向けた。高尾の心臓が、大きくドクリと鳴った。
 緑間の隣には、知らない女性がいた。彼女は楽しそうに微笑み、緑間に何か語りかけている。相槌を打つ緑間の表情も柔らかい。
(彼女、できたんだ…)
 電車はすぐに発車する。緑間は、高尾の好きな横顔を見せながら、遠ざかっていく。高尾はその横顔から目を離せないまま、扉に縋り付いた。やがて、彼の姿が見えなくなる。高尾は震える息を吐き出した。いつかはこういう日が来ると、覚悟していたことだ。大丈夫。大丈夫だ。緑間に彼女ができることを何度も想像した。高尾はいつものように茶化しながら、心の底から祝福の言葉を述べる。緑間は照れたような、拗ねたような表情で眼鏡を押し上げる。彼の隣で彼女が幸せそうに笑う。それを見て緑間も優しく微笑む。高尾は破顔し、二人の肩を力強く叩く。そんな想像を繰り返して、覚悟を固めてきた。固めたつもりでいた。しかしその光景をいざ目の当たりにして、なんだこの様は。高尾は奥歯を噛み締めて自分を罵った。しゃがみこみそうだ。人ごみの中で、泣きそうだ。じわりと喉の奥が熱くなって、慌てて俯いた。
 隣の女性は、想像通りの人だった。女性らしい淡い色のワンピースがよく似合っていた。背が低くて、つま先立ちをするように緑間を見上げていた。優しそうな表情で、緑間に微笑みかけていた。高尾が特別好きだった彼の横顔は、今では彼女のものなのだ。彼女は、左耳の下のほくろに、もう気付いただろうか。
 高尾は胸の痛みを堪えて、遥かに過ぎ去った駅の方を見遣った。そして、苦い呼吸を飲み込み、目を瞑る。
 どうか真ちゃん、緑間、幸せでいて。
 踏ん切りをつける時が来たのだと、高尾は自分に言い聞かせた。

フ/ジファブリック 「B/ye Bye」

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