思い出すのは、君の泣き顔

「真ちゃん」
 高尾の呼ぶ声がした気がした。反射的に顔を上げて、周囲の人ごみを見渡す。
 駅は、スーツ姿のサラリーマンや、学生らしき集団や、熱心に携帯電話を弄る若者らでごった返していた。ちょうど電車が発車したところで、次の快速電車を待つ列と、改札へ下りる階段に向かう列が交差していた。一人の人も二人組も小さな集団も大きな集団も、それぞれで完結した世界を守っていて、隣の世界に無関心でいる。彼らは丸い世界の内側を向いたまま、肩が触れ合いそうな距離の中で、隣の世界とぶつからないように上手に動いていた。緑間は、水泡のようにひしめく世界から頭一つ飛び出して、自分と世界を共有しているはずの黒髪を探した。
「どうかしたの?」
 40cmほど下から声が掛かり、すぐ隣の彼女を見下ろした。
「いや…知り合いがいたような気がしただけです。…気のせいでした」
 彼女は、緑間が医師免許を取得してから勤めている総合病院の看護士だった。研修医時代、なかなか勝手が掴めずにいた頃、何かとよく面倒を見てくれた。歳は三つほど上だが、少し垂れた大きな瞳と緩いウェーブの掛かった色素の薄い髪が、彼女を幼く見せていた。
 彼女が自分に好意を持っているのは気付いていた。高尾には散々恋愛事に鈍いと冷やかされたが、自分ではそうでもないと思っている。緑間も、こうしてたまの休日の誘いを受けるほどには、彼女のことを好ましく思っていた。
「そう?もしそうなら、向こうの方が気付いているかもしれないわね。後で連絡してみたら?」
 緑間くん、目立つから。
 そう言って楽しそうに笑う彼女の顔を、そっと盗み見た。彼女の顔は、緑間の希少な友人であり、唯一無二の相棒でもある男の顔とは少しも似ていないが、こうして緑間のよくわからないタイミングで楽しそうに笑うところは、いつも緑間に彼のことを思い出させた。
「そうですね」
 ぼんやりと相槌を打ちながら、緑間は、もし見つけたなら向こうから連絡を取ってくるだろうと、遥か福岡の地にいるはずの高尾の笑顔を思い浮かべた。

 高尾からの連絡は来なかった。最初の数日は、駅に高尾がいたように思ったのはやはり気のせいだったのだと納得し、気にも留めていなかった。いずれにしても、高尾からは一週間に一度は必ずメールが来る。東京にいた頃は何かにつけてよく会っていたからそれほど頻繁にメールをしなかったが、彼が福岡へ転勤になってからは、会った時に心の移りゆくまま語り散らすような細々としたどうでもいいことを、メールで寄越してくるようになった。南だから暖かいと思っていたのに今日は東京の方がぬくいなんて裏切られた気分だとか、最近ポケットティッシュって配らなくなったよな、とか、宮地さんと二人で夜中に屋台のラーメン食べに行ったとか、返信を求めているのかいないのかよくわからないメールがほとんどだった。緑間はいつも、「それがどうした」だとか、「早く寝ろ、馬鹿め」だとか、辛辣な一言を返したが、高尾の独り言のようなメールに返信するだけありがたく思え、ぐらいに思っていたし、実際、高尾は返信が来ること自体に満足しているようだった。
 だから、またその内メールが来るだろうと気楽に構えていた緑間だったが、あれから一週間が経ち、二週間が過ぎても、高尾からのメールは来なかった。駅で高尾の声を聞いたような気がした日から、高尾は息を潜めるように緑間の前に現れなくなった。こうなると逆に、あの日、高尾はやはりあの駅にいたのではないかという気がしてきた。それがメールの途絶えた理由にどう繋がるのかはよくわからなかったが、緑間はほぼ確信するようにそう思った。そわそわと携帯のディスプレイを確認することが増えた。そして、バイブが振動する度に期待してディスプレイを見るが、黄瀬だったり、例の彼女だったりで、がっかりするのだった。
 三週間が経った頃、とうとう緑間は高尾にメールをした。何と言って送るか散々悩んで、書いては消し、消しては書きを繰り返したので、最終的にどんなメールを送ったかは忘れてしまった。きっと、返信がいるのかいらないのか、よくわからないメールだったに違いない。それでも、たまにしか送らない緑間からのメールには、鬱陶しいぐらい食いついてくるはずの高尾からの返信はなかった。
 離れていても、何年経っても、切れてしまう関係ではないと思っていた緑間は動揺した。投げられたボールは投げ返したらいい。しかし、投げたボールを拾ってくれなかったら、あっと言う間にコートの外だ。共有するだけでは弱く、続けるためには守らなければならない。意地やプライドというのはこの場合甘えだ。人事を尽くすのに、不用なものだ。
「何かあったのか」
「連絡をくれ」
「あの日、東京に来ていたのか」
 ストレートな言葉を毎日送り、電話も掛けた。しかし、そのどれにも高尾が応えることはなかった。
 とうとう緑間は、今福岡にいて、高尾と頻繁に会っているらしい宮地に電話を掛けた。宮地は、5コールくらいで電話に出て、随分久しぶりだというのに何の感慨もなさそうな声で、「何」とぶっきらぼうに言った。不機嫌なわけではなく、彼の気心知れた人間に対するいつもの態度だと知っているので、特に気にしない。
「高尾と、連絡が取れないのですが。宮地さん、最近高尾と会いましたか」
 緑間も、挨拶を抜きにしていきなりそう切り出した。宮地はのんびりと答えた。
「別に、変わりなく、元気にやってるぜ。うぜぇくらい。なに、お前に連絡してねーの」
 宮地の言葉に幾分含むものを感じたので、緑間は黙った。やはり高尾は、「緑間を」避けているのだ。そのことが事実として眼前に突きつけられると、もう緑間にはどうすればいいのかわからなかった。
 高尾から福岡行きを告げられた時のことを思い出す。仕事が早く切り上がった日に二人で飲んで、彼は話のついでのようにそのことを切り出した。見送りには行けなかったので、その日が高尾の顔を見た最後だった。あの日、彼はどんな表情をしていただろうか。店では、高尾の横顔ばかり見ていた気がする。

 珍しく連休が取れた日、彼女からの誘いで、二人で喫茶店に出掛けた。初夏に差し掛かろうかというよく晴れた日で、大きな窓から差し込む白い光が、テーブルの上の観葉植物の入った小瓶にキラキラと反射していた。彼女の指が、小瓶からはみ出したワイヤープランツをそっと撫でた。彼女の細くて白い指の先には、何も塗られていない桜色の爪が丸く付いていて、それがちょうどワイヤープランツの葉と同じぐらいの大きさだった。緑間が指先をじっと見つめていることに気付いて、彼女は意味もなく両手の人差し指を立て、笑いながら揺らしてみせた。緑間の喪失感とは裏腹に、申し分なく優しい光景だった。
 店員が、緑間の頼んだ小豆のロールケーキと、彼女が頼んだブルーベリーチーズケーキを運んできた。緑間が慎重にロールケーキにフォークを入れるのを彼女は楽しそうに眺め、とうとう堪えきれないというように、ふふっと吹き出した。
「何ですか」
 少ししかめ面で問うと、
「緑間くんがロールケーキを食べているから」
と、また楽しそうにケラケラ笑った。
 緑間は諦めてケーキを口に運んだ。相変わらず、緑間には理解のできない理由で笑う。こういうところは本当に高尾によく似ている。
 そこまで考えて、緑間の手が止まった。
 高尾は、どんな風に笑っただろうか。
 彼女のように、何が楽しいのか四六時中笑っていたはずなのに、試合中でさえ、不敵な笑みを浮かべていたはずなのに、緑間にはどうしても彼の笑顔が思い出せなかった。最後に居酒屋で別れた時、緑間は、遠くに行くのだからと、「元気でな」とか、「頑張るのだよ」とか、珍しく優しい言葉で見送った。高尾も、「真ちゃんのデレ来た!これで心置きなく福岡へ行けるわ!」と、笑顔で手を振っていたはずだ。しかし、本当にそうだろうか。今、緑間の脳裏に浮かぶ高尾の顔は、どこか堪えた泣きそうな顔ばかりだ。あの時、最後に手を振った時、高尾は、本当は泣いていたのではなかったか。
「すみません、俺…」
 突然立ち上がった緑間を、彼女が不思議そうな顔で見上げた。
「あの、すみません。大事な用を、思い出したので…」
 彼女は一瞬ぽかんとした後、すぐに寂しそうに微笑んだ。
「いーのよ。大事な用なんでしょう。行ってらっしゃい」
 痛みを堪えたようなその顔は、最後に見た高尾と重なって胸が痛んだが、すぐに高尾の泣き顔に上書きされた。
「すみません、失礼します」
 頭を下げ、伝票を持って踵を返す。もう頭には、高尾のことしかなかった。

 よく晴れた土曜日の午後、街は多くの人が行き交っていた。一人の人も、二人組も、小さな集団も大きな集団も、それぞれで完結した世界を守っている。緑間は、無数の世界の間を全速力で駆け抜けた。丸い世界の住民は隣の世界に無関心で、一瞬何事かと顔を上げるが、またそれぞれの世界に戻っていく。緑間の世界は、まだ完結していない。それはきっと、バスケのハーフコートにも満たない小さな世界だ。二人肩を並べて立って、きっとそれだけで満たされる。
 向かうのは羽田だ。高尾にメールをしても、見ないかもしれない。緑間は、アドレス帳から宮地の名前を呼び出して、メールを打った。
「今から行きます」
 そのまま電源を落として、ポケットに放り込んだ。緑間は、今、世界を完結させるために走っている。

フ/ジファブリック 「笑/ってサヨナラ」


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