恋のルーズボール

 午後の図書室は静かだ。ページをめくる音、カウンターの司書と学生の控えめな話し声、友人の、黙々とノートにシャーペンを走らす音。体育の授業か、時折グランドからわっと歓声が上がるが、それすらも書架に埋め込まれた本の間に柔らかく吸い込まれていく。
 センター試験が終わり、三年生はほぼ自由登校となった。塾に通っていない木村と宮地は、特に示し合わすでもなく、学校の図書室で一緒に勉強するのが日課になっていた。朝十時頃登校し、なんとなく図書室で顔を合わせ、昼食を一緒に食べ、また図書室で勉強して夕方頃帰る。
 木村は、ぎりぎりまでバスケに打ち込んでいた割に、センター試験ではそれなりの結果を出せたのではないかと思っている。志望校には頑張れば滑り込めるだろう。木村の志望校は実家から程近いところにあり、将来店を継ぐ気でいる木村は、遺伝子学を学びながら家の手伝いをしたいと考えていた。宮地は言うまでもなく、全国有数の私立大学、国公立大学にも十分手の届く点数を出した。「二次が終わるまでわかんねーよ」と、もっともなことを言っていたが、それでもやはり、元の志望校が高いだけに少しほっとしたような表情だった。
 集合をかける笛の音が遠くで聞こえ、木村の意識は窓の外に移った。
 空は冬特有の重たい灰色で、今は丸裸の桜の木が、寒々とした枝をひっきりなしに震わせている。暖房の効いた図書室の中ではわからないが、きっと外は冷たい木枯らしが吹き荒れているのだろう。もうすっかり冬なんだなあと、木村は思った。秋口からがむしゃらに練習に励み、WC後は感傷に浸る間もなく追い立てられるように受験勉強に突入した。季節の変化を感じる余裕もなくしていたことに、今更ながら気付いた。無意識下でも容赦なく時は進む。木村たちのバスケは終わり、受験を迎え、そして卒業の日が来る。
 WCは洛山に完敗した。だが、全国三位という結果は誇ってもいいと思っている。秀徳高校バスケ部総力を挙げての努力の成果だ。準決勝で敗れた時は、木村も宮地も大坪も、その他の三年生も涙を流したが、引退式の日には皆晴れ晴れとした顔になっていた。全力を出し尽くした、悔いのない三年間だった。
 部活を引退してからめったに会わなくなったバスケ部の面々を思い浮かべる。同学年といえどもクラスが違えば話すこともなく、ましてや一二年生は遠目に見掛けることもなくなった。すでに懐かしいという心地さえする。
 木村は、相も変わらず毎日顔を会わせている、見慣れた蜂蜜色の頭を見るともなしに眺めた。生え際が少し黒くなっている。プリンになるのを嫌いまめに染めていた宮地だが、さすがに受験期でそれどころではないのかもしれない。
 四人でゲームセンターに行ったあの日から、宮地はめっきり大人しくなった。もちろん部活では今までどおり怒号を飛ばしていたが、教室や帰り道で何くれと木村に絡んでは管を巻いていた宮地が、物思いに耽るようにぼんやりすることが多くなった。クラスメイトも気になったのか、
「ねえ木村、宮地どうかしたの?」
「あいつ大丈夫?」
と、よく尋ねられた。
 直接聞けよ、と思わないでもなかったが、宮地の世話係に認定されているのは不本意ながら自覚している。
「さあな、あいつにもいろいろあんだろ」
と適当にいなすと、宮地にも受験のプレッシャーとかあんのかね、と首を傾げながらもごまかされてくれたが、明確な心当たりのある木村には、ずっとそのことがもやもやとした塊となって胸に引っ掛かっていた。
 宮地は木村に、高尾の話を一切しなくなった。引退前までは時折メールのやり取りもしていたようだったが、最近はその数もめっきり減ったような気がする。それでも、スマホがブブっとメールの着信を告げると、あからさまに肩を震わせてすばやく差出人に目を走らす。そして木村の視線に気付くと気まずげに、「姉ちゃんだよ。雨降りそうだから洗濯物取り込んどけってよ」と、わざとらしく悪態をつくのだ。彼の捨てた恋については触れてほしくないということなのだろうと、木村もそ知らぬふりを通した。
 しかし、どう見たって宮地は全然高尾のことを諦めきれていないのだ。鳴らないスマホを睨みつけている時、勉強する手を止めて机に視線を落としている時、宮地の瞳に表れる葛藤に、気付かないわけにはいかなかった。宮地の問題だとわかっている。彼が諦めると決めたことに口を挟むのは過ぎた世話だと、頭では理解している。しかし同時に、自分が背中を押してやらないと、何もかもここで終わってしまうという妙な責任も感じていた。
 どうしたもんかなあ。
 重い溜め息がプリン頭の旋毛に掛かり、宮地が顔を上げた。そして、木村の集中力が切れているのを見て取って、「そろそろ帰るか。いつもよりちょっと早いけど」とノートを閉じ、大きく伸びをした。

 外に出た途端、ビュウと音を立てて冷たい風が正面から吹きつけ、二人して思わず首を竦めた。いつもは部活の真っ最中の時間帯に帰るため人通りの少ない渡り廊下だが、今日はこれから部活に向かう学生や帰宅組の学生が活発に行き交っている。さみいさみいと叫びながら薄いジャージでグランドに飛び出していく後輩たちを見て、若いなあと思う。ほんの一ヶ月ほど前まで自分もそうだったにも関わらず、なんだか歳を取った気分だった。
 と、部室棟に向かう学生の群れの中に、見慣れた二人組の後ろ姿を見付けた。
「高尾!緑間!」
 懐かしさに、考えるより先に声が出た。でこぼこの頭が揃って振り向く。
「あー!どしたんすか?三年って自由登校ですよね」
 すぐさま黒髪の方が駆け寄ってきて、緑頭もゆっくりとこちらに歩いてくる。
「最近図書室で勉強してんだよ。調子はどうだ?」
「順調っす!みんな気合入りまくりだし、新しい部長もいい人だし」
 なんか久しぶりっすね~とへらへら笑う高尾を見て、木村は違和感を覚えた。何だ?
「木村さんら二次試験もうすぐっすよね。俺も二年後受験とか考えたくねー!ヤベー!」
「ふん、日頃から人事を尽くしていれば、二年後に焦ることなどないのだよ」
「そおなんだけどさ~。ぶっちゃけ今はバスケで手一杯だっつの!ねえ、木村さん」
 いつものごとく高いテンションに紛れた違和感の正体に、木村はようやく思い当たった。高尾はさっきから、木村にばかり話し掛けているのだ。いつもなら、どちらかというと宮地の方に絡んでいくことの方が多いのに。横目で窺うと、宮地も微妙に彼らから距離を取っているように見える。
「高尾、そろそろ行かないと遅れるのだよ」
 緑間は高尾の返事を待たずに、では、と軽く会釈をして踵を返し、高尾が慌てた声を上げた。
「うわ、ちょい待って真ちゃん!んじゃ失礼します。勉強頑張ってくださいね。宮地さんも!」
 最後に取って付けたように宮地に声を掛け、悠々と歩き去る緑間の後をバタバタと追い掛け去っていく。お前らも頑張れよーと手を振って見送ったところで、木村は宮地を睨みつけた。
「おい、どうしたんだよ。高尾の態度おかしくね?なんかあったんじゃねーの?」
 宮地は別に、と言って、木村を振り切るように歩き出した。
「待てよ」
 追いすがる木村を無視して宮地はしばらく無言で歩いていたが、校門を出た辺りで木村がおい、と肩を掴むと、観念したようにぼそりと呟いた。
「いや、悪ぃ。ちょっとな、高尾と距離置こうと思って」
「はあ?」
「俺、あいつのこと諦めるって決めたじゃん。けどやっぱ顔合わせたりメールしたりしゃべったりすると、決心が鈍るからさ。それに、俺ら言ってる間に卒業だし、したらもうお互い過去の人間だろ。そん時に向けて、ちょっとずつ慣れとかなきゃなーとか」
 木村は、早足の宮地の横に並ぼうと小走りになった。
「メール返してねーのかよ」
「……冬休み明けぐらいまではちょくちょくメールしてたんだけど、そんなこんなであんまちゃんと返してなかったらその内来なくなった。あいつのことだから、俺が意識的に避けてんの、気付いてんじゃねーの」
「……」
 言いたいことはいろいろあるはずなのに、言葉が浮かばず結局黙った。少し歩調を落とす。宮地も、木村に合わせてゆっくりとした足取りになった。
「……なあ、お前、なんで高尾好きになったん」
 木村はふと、かねがね聞いてみたいと思っていたことを口に出した。
「んー」
 煮え切らない返事を漏らすが、いつものことなので黙って待ってやる。
「……ほんと、些細なことだぜ、きっかけなんて」
「そんなもんだろ」
「しょーもないって思うかも」
「思わねーよ」
「うーん」
「いいから言えよ」
 さすがにイラッとして肩を小突くと、
「悪ぃ悪ぃ、言うから!」
と少し木村から逃げた。
「あ、あのな、IHの少し前の話なんだけどな、あいつが妹と一緒に歩いてるとこを見たんだよ」
「ふん、そんで?」
「……いや、そんだけ」
「はあ?んなわけねーだろ」
「う、いや、ほんとにそんだけ。というか……うん、そんでまあ、ちょっと遠くてさ、何話してんのかはわかんなかったんだけど、妹があいつに内緒話するみたいに話し掛けて、あいつはちっちゃい妹に合わすように思いっきり背ぇ丸めて耳寄せてやって、それから笑ったんだ。そん時の顔というか、表情が、あんま俺らに見せたことのないような……なんてーの?慈しむ?愛しむ?とにかく、こいつは妹のことが大切で大切で仕方ねーんだなあって顔してて、声掛けるつもりだったんだけど、なんかドキドキしちまって、見てることしかできなかった。ほら、あいつって、ちょっと軽薄そうなとこあんじゃん。上っ面だけで生きているみたいな。特に夏頃まではそういう奴なんだと思ってたし。それが、大切なもんにはこんな深い情を向けるんだってのに胸を突かれて、さ。俺らぐらいの歳で、あんな表情できる奴ってあんま知らねーから余計に、それがもし俺に向けられたらどんなだろうって想像しちまったというかなんというか……そしたらそれからあいつの視線の先とか表情とか気になって仕方なくなって……」
 語尾は鼻まで埋めたマフラーにもごもごと消えていった。耳が赤いのは寒さのせいだけではないだろう。黙ってしまった木村に、チラリと視線を寄越す。
「ってなんだよその顔!しょーもないって思わないって言ったじゃん!」
「しょーもないとは思ってねーよ。けどちょっと……え、つまりお前は高尾が妹に向ける表情を見ていいなって思ったんだな、そうなんだな?お前の末っ子根性を垣間見た気がするが、後輩相手にそれはねえわ~」
 ち、がう……とよれよれの反論をして、宮地はコートの前をぎゅっと握り締めた。
「ちげーよ、妹の立場が羨ましいとかじゃなくて、あいつのもっと近い人間になれたら、そういう顔を向けてくれんのかな、と」
 二人はとっくに分かれ道に着いていたが、ぐずぐずと立ち止まっていた。通りすがりの奥さんが、この寒いのに……というような目で見ていく。
「なあ宮地、俺もずっと反省してたんだ。あの日、高尾を諦めようとするお前を俺は引き止めなかった。けど、それで本当によかったのかなって。お前、まだ好きなんだろ?高尾のこと。お前の言う、『慈しむ』や『愛しむ』表情ってやつ、俺は知ってるぜ。お前、そんな顔で高尾のこと見てたろ。ただ表面だけで好いたの惚れたの言ってるわけじゃないってわかってんだよ。お前は確かに偶像崇拝的なところはあるが、そんな惚れっぽい男じゃねえし、高尾に負けず劣らず情の深い奴じゃん。一回マジで好きになった人を、簡単に諦められるわけねーだろ。それにやっぱり、後々長く引きずるような気がすんだよ」
 宮地はぐっと口を引き結んだ。
「駄目ならさ、駄目でいいじゃん。一回言ってみろよ。俺ら、もう夏の頃より高尾のことよくわかってんだろ。宮地に告られて、ちゃかすような奴でも嫌がるような奴でもないって」
 宮地はしばらく俯いたまま動かなかった。そして、絞り出すように言葉を吐く。
「うん、好きだよ。俺、あいつのことまだ全然諦めきれてねえ。けどさ、俺にとって、秀徳高校バスケ部ってのはすげー大事なもんだから、そこに余計なこと挟みたくねえんだよ。ここでもし高尾に告っちまったら、大切なバスケ部の思い出に、常々俺の恥ずかしい感情がセットになって付きまとってくる」
「そんなのとっくじゃねーか。告白しようがしまいが、お前の恥ずかしい恋心はバスケ部の思い出とセットだろ」
「う、ん、まあそうなんだけど。けどやっぱ違ぇっていうか。告んなきゃ、俺だけの問題じゃん。けど伝えてしまったら、高尾の大切な思い出にまで、俺のいらねー気持ちを挟み込むことになっちまう」
「そんなん言い訳だ。お前が怖いだけだろう」
「怖いよ、怖くて当たり前だろ。俺は今あいつの『いい先輩』ポジションだ。これで満足していたいんだよ!」
「自分のヘタレを、きれいごとでごまかすなよ」
 宮地の顔が強張った。
「うっせーよ木村には関係ねーだろ!もうほっといてくれ!」
 一瞬、凍ったような静寂が下りた。宮地はハッと我に返り、うろたえた声を出した。
「あ、あの、悪ぃ木村。俺……」
「あー……いや、いいよ。俺も言いすぎた。確かに、俺がうるさく言う問題でもねーわな。お前が決めることだ。つか、いい加減寒いし、帰るわ。宮地も風邪引くなよ」
 じゃーな、と手を上げて宮地に背を向ける。呼び止めようとする気配を感じたが、構わず歩を進める。木村も少し頭を冷やしたかった。
(何でこんなに腹立たしいんだろう)
 一年からずっと同じクラスだった。最初は、明るい髪の色やいつも不機嫌そうな表情を見て、あまり仲良くなれそうにないと密かに思っていたが、二人とも入学してすぐにバスケ部に入り、話す機会も必然的に増え、努力を怠らない真摯な姿を知るにつれ、尊敬する友人に変わっていった。厳しい練習に耐え、さらに努力をし、決して諦めず、三年で二人してスタメンを勝ち取った時には、影で抱き合って喜んだ。
(俺は、宮地に憧れてたんかな)
 ヘタレでロマンチストでセンシティブで臆病で、ごく普通の男子高校生である宮地清志を木村は好きだったが、彼には「諦める」ということをしてほしくなかったのかもしれない。
(俺の、下手な感傷だ)
 そうわかってはいる。宮地はきっと今頃おろおろしているだろう。だが今はまだ、木村の方から折れてやる気にはなれなかった。

 次の日から、宮地は図書室に来なくなった。元々、特に約束をしていたわけではないのだからどうってことはない。そう思うようにした。
 あれこれ思い悩む間もなく、宮地より一足先に、木村の二次試験の日となった。
 試験を終え、熱気で淀んだ会場を出る。冴えた空気が心地よい。薄い雲の向こうに、白く冷たい太陽の輪郭が見えた。終わったー!と、空に向かって叫びたい衝動に駆られる。正直、勉強は苦しかったし辛かった。こんな短期間でやっぱり無理なんじゃないか、もう来年でもいいじゃないか。そんな弱音が何度も頭を過った。結果は神のみぞ知る。しかし、縋り付いてでも人事を尽くさない者には、泣く資格も喜ぶ資格も与えられないのだ。今、木村は清々しい気分だった。
 前日に、宮地からは短い激励のメールが届いていた。ケンカをしていてもこういうところは律儀で、やはり憎めない男なのだ。携帯を開き、「終わったぜ、お前も頑張れ」と打ちかけたところで、あ、と背後から頓狂な声が上がった。
「木村さん」
 振り返ると、薄青い空を背負って高尾が立っていた。
「うは、偶然すね。もしや試験帰りっすか?」
 言いながら木村の隣に並ぶ。
「おー終わったぜー。やっとだよ」
「お疲れさまっす!感触はどんなですか?」
「やるだけやったよ」
 親指を立てる木村に、高尾は安心したように笑い、バスケの試合の時のように拳を合わせてきた。
「マジ尊敬っすわ、先輩たち。WCまでバスケやってて受験とか」
「必死だぜ、もう。まあ俺なんかは短期詰め込みだったけどな。宮地や大坪は、ハードな部活と並行して受験勉強も頑張っていたからなあ」
 宮地の名前を出した途端、高尾の頬が一瞬引き攣った。
「さ、すがっすね」
 一呼吸にも満たない間で高尾は笑顔を立て直したが、木村はそのことに突っ込むべきか迷い、不自然な沈黙が落ちた。高尾も失敗したと気付いたのか、あーと言いながら頭を掻いている。言葉を探しているうちに、高尾の方からおずおずと切り出した。
「あの、ちょっと相談、いいですか」

「今日、部活は?」
 近くの公園のベンチに並んで腰掛ける。いつもは夕方になると秀徳の学生のだべり場と化すのだが、今日はこの寒さのせいか、人影も疎らだった。
「今日は休みです、期末なんで。俺ちょっと図書室寄ってたから遅くなったんですけど……つかよく考えたら、試験後の疲れている時に、すんません」
 二月の風は寒い。高尾はマフラーの中からもごもごと謝った。
「いいよ全然。試験終わったんだし、晴れて悠々自適の身だ。遠慮するこたあねーよ」
 常らしくなくしょぼくれた高尾の様子に、わざとおどけたように言ってやると、すみません、ともう一度謝ってからへにゃりと笑った。
「で、どうしたよ」
「えー、あの、あんま頭まとまってないんで、とっ散らかった話になると思うんですけど……」
「おう」
「……WC終わって、先輩たちがいなくなってからも、残った一二年で頑張ってます。先輩たちと取った全国三位も大事な結果だけど、それでもやっぱり悔しかった。次こそはてっぺんに立ちたいって、みんな気持ち一つになってます。緑間も、わざわざ言葉にはしないけど、このチームで優勝したいってのびしびし伝わってくるんで、俺も気合入りまくってんです。でも……でもなんか、俺最近おかしくて……」
「うん?」
 あれ、なんか既視感。
 なんだったっけ?と頭の端で引っ掛かるものを感じるが、思い出せないまま高尾の話に耳を傾ける。
「部活ん時はそりゃもう必死なんであんま感じないんすけど、部活終わって片付けてる時とか、家帰ってほっとベッドに寝っ転がった時とか、風呂入ってる時とか、もう駄目なんです。あー、あのー、寂しくて」
 そこで高尾は顔を赤くして言葉に詰まった。珍しいものを見たと、木村は目を丸くした。
「中学でもバスケ部だったし、先輩がいなくなるっていうのは何回か経験してるはずなんですけど、先輩らのいない体育館とか、あと二週間ほどで卒業かーって思ったりとか、そんなことでほんとに胸がぎゅってなって、もうマジなんなん俺」
 うーと唸って、ますます深くマフラーに顔を埋める。
 木村は少し笑った。高尾は、今時の男子高校生らしく見せかけておいて、実際同学年の後輩たちの中でもずば抜けて大人びていると思っていた。しかし今の、頬を赤く染め、眉間にしわを寄せ、コントロールできない感情に納得できずふて腐れたように唇を尖らせたその表情は、まるで小学生のように幼い。
 かわいいな、と思った。
 その気持ちのまま、左手を伸ばして高尾の頭をわしゃわしゃと掻き回す。指通りのいい髪の毛は絡まることなく元の位置に戻り、掻き混ぜたら掻き混ぜたなりの宮地の頭と比べて、木村はぷっと噴き出した。
「なんなんスかもう」
 文句を言いながら、さほど乱れてもいない髪を直す仕草をする。
「その、頭ぐしゃぐしゃにするの、木村さんの癖なんですか?宮地さんにもよくやっていましたよね」
「え?うーん、そうなんかな?あんま意識したことねーけど、確かに宮地にはよくやるかな。俺も兄貴にはそうされるし、そのせいか弟にはそうするし、考えてみりゃ、宮地に対してもそんな感じなんかも」
「ぶはっ!宮地さんが弟っすか!けどなんか……木村さんといる時の宮地さんって、いつもより少し幼いっていうか、肩の力抜けてるっていうか。こんなこと言うと殺されそうですけど、ちょっとかわいくって構いたくなりますよね」
 さすが高尾、よく見ている。と、木村は感心した。見栄坊の宮地は、後輩の前ではいつも先輩らしくあろうと気を張っていたというのに。
「構ってやれよ。あいつ結構構ってちゃんだから、喜ぶぜきっと」
 何の気なしに言った言葉に、高尾は眉を曇らせた。
「けど……俺きっと宮地さんに嫌われてるし」
「はあ?!」
 思いも寄らない高尾の言葉に、木村の声は裏返った。
「まあ、相談したかったのってそのことでして……木村さん知ってるかわかんないスけど、俺結構秋ぐらいから宮地さんとメールしてたんです。最初宮地さんのこと超怖い先輩と思って内心ビビッてたんですけど、部活でもよく見てくれるし、校内で会っても立ち止まって話してくれるし、そうやって気に掛けてくれてんの知って、影でめっちゃ努力してんのも知って、だんだん憧れの先輩になっていきました。そんな先輩からメール来ると嬉しいし、特に一緒にゲーセン行ってからはくだらない内容のメールも送れるようになって、距離近付いたような気がして有頂天になってたんです。まあ受験生だし、勉強の邪魔しちゃ悪いなーと思ってなるべくメール控えるようにはしてたんですけど、冬入ったぐらいから、なんか返事そっけなく感じ出して、返事くれないことも何回かあったし、今じゃ全然こっちから送れなくなっちまいました。こないだ会った時もほとんど顔合わせてくれねーし、俺絶対宮地さんに嫌われた。せっかく仲良くなれたと思ってたのに、こんな感じで卒業しちゃうのほんと辛くて。やっぱ部活引退するとだんだん疎遠になってくのは仕方ねえのかな、こうやっていつかは俺らのことも忘れてしまうんかなとか思うとなんか寂しくて堪んなくなって、鼻の奥がツンとすんの。いや、実際泣きはしないんですけど、目頭から胸の辺りまでこう、もやもや~っと。木村さん、宮地さんと仲良いじゃないっすか。なんか言ってましたか?俺のこと。こんなことで腹立ったとか、あいつウザいとか」
 縋るような高尾の瞳に見つめられ、木村はうっと言葉に詰まった。そして腹の中で盛大に宮地を罵る。
(あんのヘタレ!!大概にしろ!!)
 そして、目一杯の優しい顔と声を作って言ってやった。
「いやー、そんなことまったく全然!俺が聞いたのは、高尾がかわいくて仕方ねえってのぐらいだ」
 え、と高尾は一瞬目を輝かせたが、またすぐにしゅんと俯いた。
「けどそれって、ちょっと前の話じゃないんですか?最近はウザがられてますよきっと。あーあ、俺調子乗りすぎたんかなー」
「なんだよ、お前らしくなくネガティブじゃねーの」
「んー、やっぱおかしいですよね。なんだろ、他の人でこんな一喜一憂振り回されることあんまないんですけど。校内で会うとテンション上がったり、メール来ると思わずにやけたり、返信来ないと落ち込んだり。女子かっての」
 高尾はハハ、と力のない笑みを零した。
 これはもしや。
 木村は高鳴る心臓を抑えた。これは、もしかすると、もしかするかもしれない。
「なあ高尾、宮地は明後日試験なんだ。激励メール、送ってやれよ」
 高尾は不安げに瞳を揺らした。
「迷惑じゃ、ないっすかね」
「ない。あいつの数少ない友人である俺が言うんだ。大丈夫だ」
 高尾はようやく、少し顔を明るくした。
「うは、百人力っすね。うん、ありがとうございます。ちょっと元気出ました」
 よっと勢いをつけて立ち上がる。
「緑間も、寂しがってます。木村さんと宮地さんと四人で出掛けたの、相当楽しかったみたいで。あの時宮地さんに取ってもらったやだモンのぬいぐるみ、あいつのラッキーアイテムだらけのファンシーな部屋の、一番目立つところに置いてあるんです。ほら、中学ん時部活で、監督もコーチも先輩も、キセキの世代に対しては何も言わないみたいな風潮があったから、木村さんも大坪さんもそうだけど、宮地さんとか特に、なんの遠慮もなくガツンと怒ってくれるの、あいつ嬉しかったみたいで。そういう先輩後輩の関係に憧れていた部分もあったみてーだし」
「そっか……あの日、俺も楽しかったよ。また遊ぼうぜ。緑間にもそう言っといてやってくれ」
 高尾は嬉しそうに頷いた。
「うす!きっと喜びます!今日はお疲れのとこすんませんでした。けど、木村さんに相談してよかったっす。ありがとうございました!」
 合格の報告楽しみに待ってますからね~!と手を振りながら去っていく高尾を見送り、木村もよし、と立ち上がった。力が漲ってくるのを感じる。生命力に満ちた二月の風を深く吸い込んだ。
 転がったボールはまだ生きている。ルーズボールには死に物狂いで食らいついて、仲間に繋ぐのが秀徳のバスケだ。
 木村は、途中になっていた宮地への返信に、最後の一文を打ち込んだ。
「終わったぜ、お前も頑張れ。諦めんじゃねーぞ!」

123 → 4 → fin.


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