恋のtip-off
「あーもう訳わかんねー」
昼休みでざわつく教室の中、一際大きな声を上げて机に突っ伏した宮地に一瞬だけ視線を寄越し、木村はまた英語のノートに意識を戻した。後輩たちが見たら驚くだろうが、宮地がこうして唐突に妙な行動をしたり奇声を上げたりするのは珍しいことではないし、それよりも次の時間に当たっている英語の長文読解の方が、目下火急の用件である。
宮地はしばらくそのまま机に額を擦り付けていたが、木村に構ってくれる気配のないことを察すると、がばっと音がしそうな勢いで顔を上げた。
「なー木村ぁ」
「次の英語当たんだよ。マー坊の授業とか、手ぇ抜けねーだろ」
「んなもん俺が教えてやっから。なあ聞けよ」
宮地に広げていた教科書を取り上げられて、木村はやれやれと溜め息をついた。こうなった宮地を放っておくと、後々へそを曲げて面倒くさいことになる。
この姿を後輩たちに見せてやりたい。そして、木村サン苦労してるんすね……ぐらいの労わりの言葉を掛けてもらいたい。もっとも、見栄っ張りの宮地が後輩にこんな甘えた姿を見せることはないだろうが。
「なんかさ、俺最近おかしいんだよ」
木村の溜め息は聞かなかったふりで、宮地は勝手に話し始める。
「もう訳わかんなくてさー」
「だから何だよ。聞いてやるから順序よく話せ」
お前得意だろうがそういうの。
話を聞く体勢になって促してやったのに、宮地はうーんと唸ってなかなか話し出そうとしない。
「あ・の・な、話したかったんじゃねーのかよ。俺の貴重な時間と教科書を返せ」
木村が目を三角にすると、宮地は慌てたように木村の腕に縋った。
「だーっちょっと待てって!俺もまだうまく整理ついてねーの!」
そしてまたずるずると机に突っ伏してしまったので、木村は宮地の蜂蜜色の頭をぽんぽんと撫でてやった。
「わかったよ、聞いてやるからゆっくり話せ」
宮地はまだしばらくうーとかあーとか呻いていたが、やがてぽつりと呟いた。
「……かたねーんだ」
「は?」
「だから!最近後輩がかわいくて仕方ねーんだよ!」
「……」
「……なんだよその顔」
「いや……結構なことじゃねーの?つか後輩はかわいいもんだろう」
木村はどっと疲れた顔で宮地を見た。不満そうに口を尖らせて、上目遣いでこちらを見ている。191cmの大男がやってもかわいくない。と言いたいところだが、童顔で甘い顔立ちの宮地がやると絆されそうになっていけない。イケメンの無駄遣いだ。
理不尽に思いながら白い目で見ていると、
「そうじゃなくてだな……」
宮地はうううと唸りながら髪を掻き回した。
「うん、例えばさ、俺はみゆみゆが好きだ」
何を言い出すのかと思えば、自分の推しメンの名前を出す宮地に、木村は戸惑いつつも頷いた。
「ああ、知ってる」
「俺はみゆみゆのことすっげえ好きだし、応援している。けど俺は、みゆみゆが皆のアイドルだってこと理解してるし、俺以外の奴がみゆみゆを好きって言っても、決して妬いたりはしない。むしろ嬉しいと思う。彼女は全ての国民に対して等しくアイドルだからだ」
「あ、ああ、そうだな」
「彼女が他の誰かと仲良くしていても微笑ましく思うぐらいで、もちろん相手に対してやっかんだりはしない。相手が恋愛感情を持っている男だったら、まあちょっとはもやっとするかもしんねーけど」
どうして急に宮地のアイドル観の話になったのか見当もつかないが、木村は一応神妙に頷いてみせた。
「でな、うちのバスケ部も同じだと思うんだよ。さっきお前は、後輩はかわいいもんだって言ったが、確かに、後輩は全ての先輩の前に等しくかわいいもんだ。俺だってそうだ。むしろ俺は昔から、案外後輩をかわいがる方だし、一年も二年もみんなかわいいと思っているさ、内心な。けどまあ、特別かわいいと感じる後輩もいることにはいる。本人たちには死んでも言わねーが、やっぱりスタメン張ってる奴は、一緒にプレイする機会も多いし、深く付き合うことにもなるし、自然と特別に思えてくる」
ふんふん、と木村は大きく頷いて同意を示した。そして頭に、傲岸不遜な緑髪のエースと、いつも彼とセットで賑やかしい黒髪のPGを思い浮かべ、宮地が誰の話をしているのかようやく合点がいった。
「緑間と高尾のことか。最初生意気に思ってたあいつらがかわいくなってきてどうしようって話だろ?俺だってそうだよ。あいつら自身、入部したての頃と比べると随分俺らに懐いてな。特にIHが終わってから」
「違う、違うんだよ」
宮地は木村の言葉を遮って、頭を抱えた。そして、抱え込んだ腕の隙間から、絞り出すように声を出す。
「いや、あいつらの話なんだけど。あいつらと言うか、その片割れが問題で……推しメンもそうだけど、後輩なら特に、俺以外の奴があいつらをかわいがってくれたら、俺にとってそれは喜ばしいことのはずなんだ。けど、けどなんか……ほ、ほら、高尾ってさ、あんなだから、いろんな奴に人気じゃん。先輩だけじゃなくって、同級生とか、あの偏屈の緑間だって、何だかんだ言いながら高尾を側に置いときたがる。例えばさ、高尾が緑間を『真ちゃん』って呼んで、緑間もあいつに好きに呼ばせてるだろ。最初あんなに拒否ってたのに、ああ心開いてきたんだなとか、緑間も高尾のこと結構好きだよなとか、高尾もあいつあれで最初は緑間に対して何か思うところがあったみてーだけど、今じゃすっかり緑間と肩並べていたいって心から思っているのがわかるっつーか、そういう後輩の成長ぶりみたいなのが見えるから、あいつら二人一緒にいてんの見んの結構好きなんだけど、ちょっと前から、いやこの一、二ヶ月ぐらい、あいつらちょっと仲良すぎじゃねって思ったり、高尾が緑間に絡みにいってんの見たら邪魔してやりたくなったり、もやもやするというか、腑に落ちないというか。それがさ、緑間に限ったことじゃなくて、大坪や、お前や、他の同級の奴らや、結構あいつ、スキンシップするのもされるのも多いと思うんだけど、そんなの見てたら妙な腹立ちを覚えることに最近気付いて、あれ、これなんか俺おかしくね?って……」
語尾はごにょごにょと机に沈んで消えていった。
宮地の話はまとまりがなくひどく複雑に聞こえて、木村はしばらく意味を考え込んでしまったが、紐解いてみるとこれはすごく単純に、
「え、なにお前高尾のこと好きなん?」
「やっぱそうなる?!」
宮地の悲鳴に、クラスメイトが何事かと二人を見る。木村はごまかすようにへらっと笑い、何でもねえ、いつもの宮地の病気だよと周りに軽く手を合わせた。ああ、宮地のいつものあれね。クラスメイトもすぐに興味を失って、各々のおしゃべりに戻っていく。それを見届けてから、木村は宮地の方に身を屈めた。声を潜めて宮地に問う。
「え、マジで?先輩後輩的なそれじゃなく、ラブとかそっち系のあれ?」
宮地は何も答えなかったが、抜けるんじゃないかと心配になるぐらい強く掴まれた髪の毛の間から覗く耳が真っ赤になっていて、あららと思った。
これはマジだ。大マジだ。
木村は少しの間考えた。デリケートな問題だし、迂闊に答えてはいけない。しかし、この意外とヘタレでセンシティブで臆病で純情な友人が、数少ない友人である自分にこうして相談しているのだ。ここであまり慎重な意見を言うのは、かえってまずいかもしれない。
「いや、俺は別にいいと思うけど」
木村がそう言うと、宮地は恐る恐るといったふうに顔を上げた。赤い顔に、情けなく眉を八の字に下げて、普段後輩をビビらせているあの鬼のような迫力は微塵も見られない。
「なあ、俺マジであいつのこと好きなん?」
「知るかよ」
と思わず冷たいツッコミをしてしまい、ごほんと咳払いをした。
「いや、お前の気持ちだろ。自分でよく考えてみろよ」
「考えるって、どうやって」
「例えばだな……よしわかった、俺が質問してやるから答えろよ。えーっと、まず……高尾が視界に入ったら意識するか」
「する」
「高尾の動きをつい目で追ってしまうか」
「しまう」
「高尾と物理的に距離が近付いたらドキドキするか」
「する」
「高尾のいない時に、高尾のことを考えたりするか」
「する」
「高尾が緑間や他の誰かと楽しそうにしていたりスキンシップ取っていたりしたらもやもやするか」
「焼く」
「……そ、そうか。じゃあ、あいつだったらこんな時こう言うだろうなとか、こういう行動するだろうなとかいうシミュレーションをしたりするか」
「する。てか妙に具体的だけどお前も経験あんの?」
「うるせーよ。部室で高尾が着替えていたら見てしまうか」
「みー……ない。逆に無理。見たらいろんなことがヤバイ気がして見ない。見たいけど見ない」
「え、じゃあお前高尾で……いや、やっぱいい。ちょっと突っ込みすぎた質問だった」
「くっそいーよ別にもう。抜けるよ余裕で抜けるよ!わかってんだよもう」
わっと顔を覆って突っ伏してしまった宮地を、木村は温い目で見た。
「わかってんならいいや。断言してやるよ。お前のそれは恋だ」
そう宣告した時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「うわやっべ、結局なんもできなかったじゃねーか!おい宮地、話聞いてやったんだからノート貸せよ!」
慌てているところに、我らがマー坊こと、中谷先生が入ってきた。真っ赤な顔で頭を抱えている宮地と、それを必死の形相で揺さぶっている木村を見て、少し首を傾げ、
「木村―、読解当ててたところ、早速やってもらおうか」
しどろもどろの回答になったことは、言うまでもない。
それから宮地とその話題をする機会もなく、放課後になった。ロッカールームで練習着に着替えながら、木村は少し心配になって宮地の方を窺った。宮地はすっかり秀徳高校バスケ部三年スタメンの顔になって、次々入ってきては頭を下げる後輩たちに、「おう」と鷹揚に挨拶を返している。
と、そこに、件の賑やかな後輩が、いつものごとく彼のエース様と絡み合うようにして入ってきた。
「だっからさぁ、真ちゃん、今度一回S町のゲーセン付き合ってよ。あそこのカードゲーム機が……あ、宮地さん、木村さん、ちわっす!」
隣で緑間が軽く頭を下げる。木村はハラハラと宮地を横目で見ながら、「よお」と上の空で返事をした。
「おっす。早く着替えろよ、先行くぜ」
宮地はいつも通り、ぶっきらぼうな返事を二人に返し、タオルとドリンクとバッシュを手に部室を出た。木村も慌てて後を追う。
「おい待てよ」
歩くのが早い宮地に小走りで追いついた途端、宮地がくるりと振り返ったので、危うく彼の肩に鼻をぶつけそうになった。
「急に止まるなよ危ねーだろ!」
喚く木村を無視して、宮地は神妙な面持ちで問う。
「なあ、俺、普通にできてた?なんか変じゃなかった?あいつ気付いてねーよな?」
「……あ、うん、大丈夫なんじゃね?」
木村は、もうかなり重症な友人に、生温かい笑みを向けた。
「つかさー」
体育館までのんびりと歩を進めながら、木村は宮地に言った。
「告白とかしねーの」
ガンッと音を立てて、宮地が渡り廊下の柱に頭をぶつけた。
「お、おい、大丈夫かよ」
「大丈夫じゃねーよ!絶対しねーし!つか無理だろフツー!」
だって、部活の、男の、怖い先輩だぜ?無理だろそんなの。
口の中で呟いた言葉は、乾いたコンクリートの床に沈んでいった。少し俯いた宮地の横顔が、九月の明るい太陽に透けて見えた。蜂蜜色の髪と、色素の薄い瞳。色白の頬が、美しい赤に染まっていた。
ああ、こいつは、恋をしているんだなあ。自分がまだ経験したことのないような、淡くもなく、スマートでもなく、純粋で美しくて苦しい恋を。
何とかしてやりたいと思った。立ち塞がる不可能の壁を、押したり引いたり叩いたり、万に一つの可能性を拾ってやる手伝いをしたいと思った。この、他人から理解されにくい男の数少ない友人として、宮地のことを心から好きだと思っている一人の人間として。
「宮地!!」
めったに出さない木村の大声に、宮地は驚いたように顔を上げた。
「諦めんのかよ!」
宮地は悔しげに唇を歪めた。
「だって……」
「秀徳の精神は何だ!不撓不屈だろう!無理だっつって、試合始める前から投げんのかよお前は!そんなタマじゃねーだろう!!」
金茶色の瞳が揺らぐ。
「けどよ、それとこれとは事情が……」
「一緒だよ。お前がバスケに向けている気持ちも、お前が高尾に向けている気持ちも、どっちも真剣で大切で本物の強い気持ちだ。本気でぶつからずに諦めちまったら、この先死ぬまで引きずるぞ」
宮地が何か言おうと口を開きかけた時、背後から能天気な声が掛かった。
「あっれ~、宮地さんに木村さん、まだこんなとこいたんスか。なんかあったんですか?遅れるなら俺、監督に言っときますけど」
高尾と緑間が、連れ立って体育館に向かうところだった。
「何でもねーよ。な、宮地。大坪にどやされる前に行こうぜ」
まだぼんやりしている宮地の背中をパンッと軽くはたき、
「協力してやるよ」
と小声で囁き、ニカッと笑ってみせた。
宮地は少し戸惑ったような表情を見せたが、一瞬ぎゅっと強く目を瞑り、気合を入れるように両頬を叩いた。
「サンキュ」
開いた瞳は、試合に挑む前のようにキラキラと強い光を放っていた。そして、木村と目を合わせ、軽く拳を上げる。木村も拳を上げ、コツンとぶつけ合った。よし、と頷き合う。
「先行きますよー」
少し先から高尾が振り返って手を振っている。
「ああ、すぐ行く!行くから、覚悟しとけよ!」
はあ?と訳のわからぬ顔をしている高尾を前に、宮地と木村は声を上げて笑った。さあ、tip-offだ。
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