恋のアウト・オブ・バウンズ
ゲームセンター近くの喫茶店は二つあって、一つは大衆向けのチェーン店で、値段は安いが味もそこそこ。家族連れが多いので賑やかしい。もう一つは、マスターが豆を挽いて入れてくれるようなコーヒー店で、高校生が入るには少し敷居が高いが、緑間がチェーン店に入るのを渋ったので、二人はそちらの喫茶店に入ることにした。木村としても、今日は気疲れしたのか静かなところに腰を落ち着けたかったので、その方がありがたかった。
(しかし……)
と、木村はゆったりと辺りを見渡した。どっしりとした木製の机と椅子、よく見ると凝った飾りの彫られた作り付けの棚、控えめな音量で流れる古いクラシックレコード。視線を目の前の男に移す。相変わらず、むかつくぐらい整った顔立ちだ。白皙の美貌とは、このことを言うのだろう。イケメンは宮地で見慣れている木村だが、緑間の佇まいは少し浮世離れしていて、気を抜くとドキッとしてしまう。
しかし、うん、いい感じだな。悪くない。俺が女ならイチコロのシチュエーションだ。
緑間は、水の入ったグラスを運んできたマスターに、慣れた様子でロイヤルミルクティーを頼んでいる。
「木村先輩は?」
促されて、慌ててメニューに目を落とした。
「え、えっと、そんじゃあぶどうジュースで」
かしこまりました、と、物静かにマスターが下がっていく。コーヒー店なのに二人ともコーヒー以外のものを注文してしまい、なんか悪いことをしたな、とぼんやり思う。
することがなくなって、緑間は眼鏡を拭きだした。木村は手持ち無沙汰にその手元を眺める。今日も例外なく、彼の指には白いテーピングがきっちりと巻かれている。スラリと伸びた指と少し縦長の手の甲は、よく見ると意外にゴツゴツとしていて男らしく、かえってその美しさをギリシャ彫刻のように完璧なものにしていた。眼鏡を拭く仕草一つを取っても、まるで映画のワンシーンを観ているような完成度だ……
そこまで考えて、木村は我に返った。ちょっと待て、なにを後輩に見とれているんだ。と言うかこの状況はなんだ。何が悲しくて、緑間と二人でこんないい感じになっている。「悪くない」じゃねーだろう俺。デートかよ。いや、今回のこれは宮地と高尾のデートのはずだったんだから、もしかしなくてもダブルデートか。
自分で想像してげんなりとした。
緑間は眼鏡を拭き終わり、満足げにレンズの光り具合をチェックしている。会話のきっかけもなく、テーブルに奇妙な沈黙が下りた。木村は居心地の悪さを感じて、一つ空咳をした。水の入ったグラスの氷が溶け、カランと涼しげな音を立てた。
そうだ、宮地は首尾よくやっているだろうか。UFOキャッチャーで高尾の欲しいものを取ってやって、「やるよ、これ。プレゼントだ」ぐらいのことはできているといいのだが。ひどく見栄っ張りの宮地だから、好きな後輩の前では必死に平静を装っているだろうが、あれで不意打ちには弱いところがあるから、高尾が無自覚に宮地の心を掻き乱すようなことをしたら(高尾のことだ、やりかねない)、途端にいつものヘタレっぷりを露呈してしまうんじゃないだろうか。二人きりにするのはまだ早かったかな。いやしかしこうでもしないとあのヘタレは……
木村が孤軍奮闘中であろう宮地に意識を飛ばしていると、
「あの、」
と、向かいから遠慮がちな声を掛けられた。
「あ、ああ、悪い。ちょっとぼーっとしてた。何だ?」
木村が慌てて顔を上げると、緑間が神妙な面持ちでこちらを見ていた。いつも歯に衣着せぬ物言いをするのに、今日はやけに躊躇っている。再び沈黙が落ちる。
「お待たせいたしました。ロイヤルミルクティーと、ぶどうジュースでございます」
二人の間に渡った無言の糸を断ち切るように、テーブルに注文の品が差し出された。
「あ、どうも」
木村と緑間が軽く会釈をするのに、「ごゆっくりどうぞ」と静かな微笑みを残してマスターが下がっていく。いい店だなあ、と、木村が後ろ姿を見送っていると、緑間が身じろぎするのが目の端に映った。何かを言いあぐねて、珍しく緊張しているのかもしれない。
「まあ、熱いうちに飲めよ。ゆっくり話せばいいさ」
木村は緊張を解すように気楽な口調でそう言って、自分もストローに口をつけた。瞬間、(こ、これは……!)
思わず目をつぶる。
これは美味い。含んだ瞬間、ぶどう本来の酸味と甘味が、芳醇な香りとともに口の中に一気に広がる。飲み込むと、それは食道を染め上げ、胃を満たし、そして体中に染み渡って鼻から抜けていく。素晴らしい。エクセレントだ。間違いなく、国産のぶどうを使っている。
木村が静かな感動に浸っているうちに、緑間も温かい紅茶を飲んで幾分落ち着いたようだった。
「すみません、木村先輩。あの、ちょっとご相談がありまして」
「おう、俺で役に立つなら聞いてやるよ」
緑間は左手でずれてもいない眼鏡を押し上げた。
「あの、高尾と宮地先輩のことなんですが」
木村の心臓が跳ね上がった。え、な、何?緑間にバレてんの?確かに宮地の態度はまあまああからさまだが、こいつそういうことにはからっきし疎そうじゃん。
動揺する木村を他所に、緑間が身を乗り出してくる。
「高尾は、何かやらかしたんでしょうか」
「え?……は?」
「最近、宮地先輩の高尾を見る目が少し変な気がして……何かこう、妙に力がこもっているというか、険しいというか。今日も一日、高尾のことをチラチラと気にしていたみたいですし、もしかしたら、高尾が宮地先輩を怒らせるようなことをやらかして、説教する機会を窺っていたのではないかと思いまして」
「え、えーっと……」
「眉間にしわを寄せて口をぎゅっと引き結んでいるのは、何か言いたいことがあって堪えているためではないんですか?少し顔まで赤くして、よっぽど憤懣やるかたないことでもあったのかと思ったのですが。ああ、あの人は思うことがあったらその場ですぐに口に出して言う人であることはわかっています。しかし、人前で言うのも憚られるようなことを高尾がしでかしたんだとしたら。木村先輩も、さっきさり気なく宮地先輩と高尾を二人にしようとしましたよね。何かご存知なのではないですか」
緑間の顔は真剣だ。本気で高尾のことを心配しているのだろう。
木村は本日何度目かも知れぬ溜め息をついた。緑間が意外と人のことを見ているのはわかった。わかったが、感情の読み取り機能が壊滅的なのもよくわかった。あの宮地を見て、どこをどうしたらそんな解釈に至るのだ。こいつ頭いいらしいけど、国語のテストは大丈夫なんだろうか。
木村の呆れた視線をどう受け取ったのか、緑間はハッとしたようにまた眼鏡を触った。
「べ、別に高尾を心配しているとかではないのだよ。怒られるようなことをした、高尾の自業自得なんですから。ただ俺は、そのとばっちりが来るのが迷惑なだけで……」
これが噂のツンデレか。ここまでテンプレだといっそ滑稽で、木村は思わず吹き出した。
「何がおかしいんですか」
緑間は憮然とした表情だ。
「いやー、悪い悪い。お前の発想があまりに突飛だったもんでな」
「と言うと」
「なにもお前が心配するようなことなんてねえよ。宮地はただ、高尾と仲良くなりたいだけだ」
「そ、うなんですか?高尾と……?」
「うんそう。高尾だけじゃねーよ。あいつは緑間とも、他の一年どもとも仲良くなりたいって思ってんだ。けど宮地は部内一厳しいし、自らそういう嫌われ役というか、部を引き締める役を買って出てるだろ。一年にビビられてんじゃないかって、実は結構気にしてんだよ」
「いえ、けど、そんなことは」
「ああ、わかってるよ。だーれも思っちゃいないさ。怒鳴ってる時はそりゃ俺らだってビビるぐらいのもんだけどな。部活終わって帰る時とか、挨拶する一人ひとりに手ぇ上げてお疲れって返して、後輩の名前全員分、一番最初に覚えたのだって宮地だ。そうやって、ちゃんと見てくれてるってのは伝わるもんだからな」
緑間はコクリと頷いた。
「高尾もいつも言っているのだよ。最近宮地先輩をよく一年校舎で見掛けるのは、俺たち後輩のことを気に掛けてくれているからではないかと」
「う、うん、まあそんなとこだ」
それに関してはそんな崇高な目的ではなく、恋心と下心によるものなので、木村はチクリと痛む胸を押さえたが、緑間はなんとかごまかされてくれたようだ。
「宮地先輩も大概わかりにくいのだよ」
と、一人得心したようにうんうんと頷いているが、あんなわかりやすい奴もそういないのだよ。
しかし、まるで見当外れにしても、緑間は心から高尾を心配していたのだろう。入部当初の、自分が自分の人事さえ尽くしていれば周りはいてもいなくても同じだという態度を貫いていた緑間を思えば、いっそ感動を覚えるほどの変化だ。予選落ちしたIHを経て、鬼の合宿を乗り越え、秀徳というチームで揉まれてきた中で、緑間の他人に対する警戒心のような、頑なな部分が柔らかくなってきたのを感じる。
「緑間、変わったな」
思わず、心の声が出てしまった。またツンデレを発揮するだろうか、それとも斜め上のとんちんかんな回答をするだろうか。しかし、緑間の口から零れたのは、とても素直で、穏やかな言葉だった。
「そうですね」
木村は顔を上げて緑間を見た。翡翠色の瞳は温かな色を湛えて木村を見ていた。
「変わったと思います。変えてもらった、とも思います。秀徳というチームに。それと……とりわけ、高尾に」
最後だけ少し口籠もったが、緑間ははっきりと言い切った。
「こんなこと、本人には絶対に言いませんが」
「言ってやれよ」
と木村が笑うと、緑間も笑った。
「言いません。調子に乗るので。けど……いつかはちゃんと、礼を言いたいと思っています。天邪鬼は自覚しているので、素直に言える自信はありませんが」
「へえ、自覚してたのかよ。まあ……一度くらい、ちゃんと言葉にして伝えておけよ。『いつか』なんて、いつまでもあるわけじゃねえんだからな」
緑間は頷いた。
「けどお前、思ってたより全然素直だな。俺、今ちょっとびっくりしてるわ」
木村が言うと、緑間は不思議そうに瞬いた。
「そう……なんでしょうか。いや、そうかもしれません。相手が木村先輩だと、話しやすい気がするのだよ」
「そうなん?」
「なぜでしょうね。……ああ、お坊さんに話を聞いてもらっている感覚とか」
「なんだと緑間この野郎。お前も坊主頭にしてやろうか」
少し伸び上がって緑間の頭をぐしゃぐしゃと掻き混ぜて笑っているところに、宮地と高尾が入ってきた。
「お待たせしましたーってあれ?なんか楽しそうっすね。真ちゃん意外と会話が弾んだ感じ?」
よかったなーと言う高尾は、巨大な黒熊のぬいぐるみを両腕に抱え、その耳と耳の間から、ひょこりと顔を覗かせていた。
「そ、そのぬいぐるみは……!」
緑間が驚いた声を上げて立ち上がる。
「そ、知る人ぞ知る某県寒村の超マイナーご当地キャラクター、やだモンの巨大ぬいぐるみだぜ。お前、欲しがってたろ?」
「ああ、これが手に入ると、巨大なぬいぐるみ、熊のぬいぐるみ、ご当地キャラクター、皿のような目のキャラクター、超マイナーキャラクターなどなど、様々なラッキーアイテムの要求に応えられるのだよ」
「お前が前にそうやって零してたの覚えていたから何となく探してたんだけど、さっすが超マイナーキャラクター、なかなか見付かんなくてな。したら、妹ちゃんが友達に、やだモンのぬいぐるみがここにあるって聞いて教えてくれたんだ」
ああ、それで高尾は緑間をこのゲーセンに連れてこようとしていたのか。木村は、忘れかけていた部室でのシーンを少し思い出した。宮地の表情を窺ったが、さっきから俯いてしきりに靴紐を気にしているため、影が顔に掛かってよく見えない。
「俺取れる自信なかったんだけどさぁ、宮地さんがうまいこと取ってくれたんだぜ。お礼言えよ」
「宮地先輩、ありがとうございます」
緑間はよほど嬉しかったのか、すぐさま宮地に向き直って頭を下げた。
「おう、苦労したんだぜ。感謝しろよ」
顔を上げ、いつものようにぶっきらぼうな口調で返した宮地は笑顔だった。木村が何も言えずに見つめていると、宮地は、
「あー喉渇いた。おい高尾、注文しようぜ。メニュー取って」
と、木村の視線を避けるように席に着いた。
宮地も高尾もコーヒーを注文し、マスターは張り切って豆を挽きだした。薫り高いコーヒーのにおいが、喫茶店中に充満する。深く息を吸い込むと、肺の隅々までコーヒーで満たされるようだ。
それから四人は、それなりに会話も弾み、宮地も高尾も美味い美味いと絶賛しながらコーヒーを飲んだ。緑間も機嫌よく、ソファ席の隣に座らせたやだモンを時々撫でていた。高尾は相変わらずよく笑い、宮地も相変わらず物騒な言葉を吐きながら笑った。木村も、すっかり氷が溶けて薄くなったぶどうジュースを飲みながら、笑っていたと思う。見えている景色、聞こえている音が、一枚ガラスを隔てた向こうの世界のもののように、なんだか遠かった。
誰かが時計を見て、もうこんな時間だと言い、よく遊んだなあと呆れながら腰を上げた。途中まで一緒に帰る。茜色に染まった道を、長い影を作りながらだらだらと歩いた。分かれ道の角まで来て、高尾が言った。
「んじゃ、俺はこっち、真ちゃんはあっちなんで。今日はほんとありがとうございました。先輩とこうして遊ぶの初めてだったけど、超楽しかったっす!」
「だな、普段バスケでしか顔合わせねーから、なんか新鮮だったな」
「楽しかったのだよ」
「今度は大坪も呼んで遊ぼうぜ」
木村の言葉に、皆大きく頷く。
「ではでは、また明日」
と、去ろうとする高尾を、緑間が呼び止めた。
「高尾」
「んあ?」
高尾は上半身だけ捻って緑間を振り仰ぐ。
「その、高尾も、今日はありがとう……なのだよ」
これ、と、緑間がテーピングした指で示したのは、今日のラッキーアイテム巨大なエコバッグに収まる巨大なやだモンだ。
「えー?それ取ったの宮地さんだぜ?」
「そうなのだが……お前にも、礼を言っておきたいと思ったのだよ。『いつか』は、いつまでもないらしいからな」
高尾はしばらく黙って緑間を見つめていた。そして、破顔する。
「お安いご用なのだよ、エース様!」
「真似をするな」
いつも通りのしかめっ面に戻った緑間にもう一度笑いかけ、今度こそ高尾が背を向けた。
「そんじゃみなさん、さようなら~」
木村と宮地は二人と別れ、とぼとぼと帰途についた。今日はやけに空が赤く、家も、道も、車も人も、皆橙色に染まっていた。全ての境界が曖昧で、木村は言葉を発するのも億劫だった。
「高尾がな」
宮地の声が、ぼやぼやとした茜色を隔てて届く。
「あいつ、緑間の話ばっかりするんだ」
木村は足下を見た。並んで歩く宮地と木村のスニーカーも、うっすらと赤く霞んで見えた。
「ちょっと考えりゃ、わかることだよな。あいつの一番は、緑間だ」
はは、と、宮地は乾いた声を漏らした。笑ったつもりだろうが、ちっとも笑えていない。木村は苦しくなった。
「俺、高尾に告んの、やっぱやめるわ。大体さ、もうすぐWCだし、俺ら受験生だし、それどころじゃねーって話だよな」
相槌のない相手に向かって、宮地は話し続ける。少し声が震えている。
「なんか、悪かったな、木村も。せっかく協力してくれるって言ったのに、全然駄目で」
いや、と言ったつもりが、ひどく掠れて音にならなかった。
諦めるなよ、とか、お前それでいいのかよ、とか、言いたいことはいくつか喉元まで出かかったが、いずれも粘ったように張り付いたままだった。緑間の、高尾を見つめる目を思い出す。高尾に感謝していると、木村に言った時の穏やかな笑みを思い出す。そして、帰り際、緑間に礼を言われた時の高尾の顔。最上級の幸せを詰め込んだような、あの笑顔。
高尾と緑間の、互いの特別を見せ付けられたダブルデートだった。
「けど、なあ、木村。俺、今日は楽しかったよ。高尾や緑間と、こんなふうにして遊ぶ機会なんて、もうないかもしんねーし」
赤靄の中で、宮地が笑った気配がした。木村はその表情を見ようとしたが、なぜか霞んでよくわからない。
「付き合ってくれて、ありがとな。俺一人だったらマジ無理だったわ」
じゃあ俺こっちだから、と背中を向けた宮地に、結局木村は最後まで一言も声を掛けられなかった。
ボールはコートの外に転々とし、やがて静かに止まった。拾う人は、もういない。
1
→
2
→ 3 →
4
→
fin.
back